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zoom RSS 京都御苑歴史散策@:閑院宮邸跡・九條邸跡・堺町御門・鷹司邸跡・西園寺邸跡の巻。

<<   作成日時 : 2014/07/11 12:00   >>

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「NPO法人京都観光文化を考える会・都草」という団体が、昨年の9月から毎週日曜日の午前中に、「京都御苑歴史散策」というEVENTを開催しているので、先日(7日)、行って参りました。まずは、九條邸の厳島(いつくしま)神社前から高倉橋を眺めていたら、灯籠の傘の上から急に鳩が飛び立った瞬間の画像を(笑)。
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京都御苑は、今でこそ翠の多い公園と化していますが、平安時代には貴族等の邸宅が、江戸時代には公家屋敷が200軒程、建ち並んでいました。これが幕末期の京都御所周辺図です。
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集合は10時、京都御苑の西南隅(烏丸通と丸太町の交差点近く)の@閑院宮邸跡です。閑院宮は江戸時代の1710(宝永7)年に、新井白石が皇統の維持を図り、天皇尊重の姿勢を示すことで将軍権威の向上をめざして新設した宮家です。
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この日は40人前後いましたので、3班に分かれて散策です。復元された閑院宮邸はいずれご紹介することに。次は“都草”作成の京都御苑の地図。文中の番号はこの地図に依ります。
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続いては、閑院宮邸跡のすぐ東のA九條邸跡。九條家は藤原氏で、摂政・関白を出すことのできる5摂家(近衛家・九條家・二条家・一条家・鷹司家)の1つですね。次の画像は、九條池と茶室の拾翠亭(しゅうすいてい)。
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この日、拾翠亭は茶会で貸切でした。そして、こちらが厳島神社。平清盛が母・祇園女御のために、安芸の厳島神社を今の神戸に勧請したのが始まり で、その後、九條邸に遷り、鎮守社となったものです。
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ここの石鳥居は、上部の島木と笠木の形から“唐破風形鳥居”と言われ、京都3珍鳥居の1つです。後の2つは、蚕ノ社(かいこのやしろ)と北野天満宮伴氏社(ともうじしゃ)にあります。そして、次は九條池に架かる高倉橋から建礼門を見通した画像です。
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明治期に、天皇が建礼門からまっすぐ外の高倉通に出られるように作られた橋ですが、実は1度も使われたことが無かったとか。そして、こちらがB堺町御門を外(丸太町側)からみた画像。
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葵祭・時代祭の行列が出る門です。こちらは裏から見た画像。扉を開けた時に傷まないように屋根が付いています。こうした門は“高麗門:こうらいもん”と言いますね。
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上の画像中央の家と家の間が堺町通です。堺町御門を背にして御苑を見ると、正面にC鷹司邸跡が。実は、元々の堺町御門は2枚目の地図を見ると分かるように、現在よりも北に入った所、。次の画像の道路部分の真ん中あたりでした。
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鷹司邸は1864(元治元)年に起こった禁門の変(蛤御門の変)の時に長州藩が陣取って、向かいの九條邸の薩摩・会津藩等と激しく戦ったために、いわゆる“ドンドン焼け”の火元の1つとなりました。次は鷹司邸跡から少し西の“黒木の梅”。
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ポツンと1つだけあるのですが、次は昨年(2013年)3月の様子です。
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“黒木の梅”の横は建礼門に続く大きな道。明治初期の京都御苑整備以前はこのあたりに公家屋敷が建ち並び、こんな道はありませんでした。
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日本では城下町等を含め防御等の理由から、正門から真っすぐに伸びる道はまず造られませんでしたので、西欧風な道ですね。そこから烏丸通側に1筋移動して、D西園寺邸跡へ。白雲神社(こちらをご参照下さい)のある所です。
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西園寺邸というと鹿苑寺金閣のある場所が有名ですが、ここは江戸中期から西園寺邸があり、明治初期に西園寺公望(さいおんじ きんもち)が“私塾・立命館”を創設した地でもあります。言うまでも無く、その名は現在の立命館大学に継承されています。ということで、3回シリーズの@はここまで。

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