アサヒビール大山崎山荘美術館で新緑を愛でる!

「アサヒビール大山崎山荘美術館」(以下、大山崎山荘美術館)は、JR線山崎駅か阪急線大山崎駅から10数分歩くとたどり着く美術館ですが、元々は大正から昭和にかけて活躍した加賀正太郎という実業家が、自ら道路・建物・庭園・植樹等の全てを設計し、20年がかりで建てた山荘だそうです。
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場所は天王山の山腹にあります。明智光秀と豊臣秀吉が戦った山崎の戦の際、この山を制した方が天下を取るとされ、「天下分け目の天王山」という言葉が残された、まさにその天王山です。次の画像はJR山崎駅から天王山を見上げたもの。
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JR山崎駅からシャトルバスで大山崎山荘美術館の入り口に到着すると、琅玕洞(ろうかんどう)と名付けられた入り口のトンネル(登録有形文化財)が…。
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トンネルを抜けた後、庭園を回り込むように歩いていくのですが、次の画像は振り返って撮影したもの。木漏れ日が美しく、清々しい気分が高まってきます。
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途中にチョッと洒落た建物が…。現在は、無料コインロッカーやトイレのあるレストハウス(無料休憩所)なのですが、この建物、実はかつては車庫。木造と鉄筋コンクリート造りの2階建てのハーフ・ティンバーなのだそうです(チューダー・ゴシック様式:登録有形文化財)。
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大阪・船場の「富商加賀商店」(繊維業・米穀仲買業・両替商)を引き継いだ加賀正太郎は、東京商業学校(現・一橋大学)を卒業後、11年間も渡欧し、帰国後は証券会社をはじめ多くの会社を経営します。で、さらに進んでいくと、両側に塀のある正門(流水門)が。
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加賀の話を続けると、加賀は隣接する壽屋(現・サントリー)の山崎蒸留所設立にも尽力したのですが、その後、オーナー・鳥井信治郎と対立した竹鶴政孝を支援して大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)を創立します。こちらが本館入り口。
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1954(昭和29)年、加賀は死亡する前にアサヒビールの山本為三郎にニッカウヰスキー株を売却。その後、山荘は加賀家の手を離れて老朽化し、取り壊してマンション建設計画もあったとか。が、京都府等の要請を受けアサヒビールが山荘を復元して美術館とした訳です。内部の撮影は不可なので、ウィキペディアから1枚。
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*画像はウィキペディアから転載しています。
ちなみに、上記のような背景からでしょう、大山崎山荘美術館のHPにはサントリーとの関係は出て来ません(笑)。1917(大正6)年に木造で建設され、1932(昭和7)年頃に増築された時、上棟はハーフティンバー、構造は鉄筋コンクリート造、屋根部分は鉄骨組みです。木造+鉄筋コンクリート造り3階建て(登録有形文化財)。
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上の画像は、展示室1のテラス越しに睡蓮の浮く池を望んだもの。奥に白い塔屋が見えます。実は1915(大正4)年に山荘で最初に建てられた、かつては白雲楼と呼ばれた物見塔。昭和初期に2期工事がなされた後は栖霞楼(せいかろう)と名称が変更されたそうです。
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緑の中に白い木造3階建ての建物(登録有形文化財)が映えます。設計者&当主であった加賀は、この最上階から工事を監督し指示を出したそうです。次は、本館に接続する形で新しく造られた安藤忠雄設計の地中館「地中の宝石箱」への通路。
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地中館「地中の宝石箱」は円柱形なのですが、これまた、内部の撮影は不可なので、ウィキペディアから通路の画像を。うーん、いかにも安藤忠雄(笑)。
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*画像はウィキペディアから転載しています。
モネの濃いブルーの「睡蓮」が2枚、他にM.ユトリロ等の作品が展示されていました。安藤忠雄設計の建物はもう1つ、山手館「夢の箱」も。こちらは地上1階建てで箱型。展示は黒田辰秋・濱田庄司等の民芸作品等。棟方志功の版画の屏風が圧巻でした。最後は夏目漱石の句碑。
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シャトルバス乗り場前にあったものです。漱石が未完成の山荘を訪れた時の句で、“寶寺の となりにすんで 桜かな”とありました。寶寺は隣接する寶積寺の通称。この時、加賀正太郎が山荘の命名を漱石にいらしたそうですが、全部却下したとか(笑)。今回は、建物や展示作品ををゆっくり見られませんでしたので、また来なくては。

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