この二の丸御殿と二の丸庭園の画像は二重の意味でレア物です!

「豊臣×徳川 歴史の舞台をいま巡る 秋の特別企画」の内、二条城城内ガイドツアー・“後水尾天皇時の行幸御殿からの二の丸庭園の眺め”篇です。まずは、実はとても珍しい、こちらの二の丸庭園の画像から。どこが珍しいか、お考え下さい(笑)。
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後でUPしますが、通常の画像だと池の後ろに二の丸御殿が写ることはありません(笑)。こちらも画像も、実はとても珍しいものです。これまた、どこが珍しいか、お考え下さい(笑)。
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そうです!…普段は右の建物(大広間)も、左の建物(黒書院)のように障子が閉められていて、外が見えることはありません。また、庭園側から大広間の中が覗けることもあり得ないのです。次は大写し。
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厳密に言うと、通常の見学でも、横からだと次の画像のように建物を背景にした画像も撮影できます。
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でも、最初の画像のように池の奥に建物があるのは無理なのです。通常は二の丸庭園の画像はこんな感じになりますね。次の画像に石垣が見えますが、その奥に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)時の行幸御殿があったと考えられています。
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今回の二条城城内ガイドツアー・“後水尾天皇時の行幸御殿からの二の丸庭園の眺め”は、上の画像の右端に写っている石橋のそばから二の丸御殿を眺めることができる企画なのです。次の左端が、その大きな石橋。
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小堀遠州が作庭したと伝えられるこの庭園ですが、石橋のそばから二の丸庭園を時計回りに撮影すると、こうなります。3枚並べてみます。
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上の画像の建物は黒書院。右に目を転じます。大広間が入ってきます。
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二の丸庭園は南(行幸御殿)側が庭園の第1正面・東(大広間)側が第2正面・北(黒書院)側が第3正面という3正面式の設計だそうです。そして、こちら。大広間部分をメインに。
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今は残っていませんが、1626(寛永3)年に後水尾天皇が二条城に行幸される時、徳川幕府は御殿を建て、池の中に橋で行き来できる御亭(おちん)を造ったと伝えられています。次の画像の石垣と庭園はその名残でしょうか。
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次の画像あたりに行幸御殿があったとされているのですが、現在は全くその跡が残っていません。かなり広い場所なのですけどね。
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もう1度、石橋の場所から大広間を大写しで。
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繰り返しますが、この日は“スポーツ・文化・ワールド・フォーラム”というEVENTの準備が進められていたので、障子が外されている訳です。で、二条城の係の方にお許しを得た、とっても珍しい画像を最後に2枚。左が南です。
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上の画像右が“大政奉還の場”です。次は、その角を曲がって黒書院方向を見た画像。
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こんな画像が撮れるのは、この日だけ!という、素晴らしい日でした(笑)。醍醐寺の様子は、そのうちに。

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この記事へのコメント

miyasan
2016年10月22日 14:11
明治政府が・・・、文革見たいな御布令を出さなければ日本には素晴らしい城がかなり残ったでしょうね!
駿府城も中堀以内は静岡34連隊の駐屯地になって居る。その御影で復元に影響が出ています。天守閣の石垣や内堀は埋め立てられていたので保存状態だったのがせめての慰めですか(笑)
良い物は残さないと駄目ですね!!
京都に行けば必ず通る堀川の二条城ですが、城内は3回ほどしか見ていない。
今度ゆっくりと散策してみます。
行者橋 渡
2016年10月25日 05:45
miyasan様、コメント有難うございます。そうですねぇ。明治維新政府の偏狭な神道重視政策や反徳川的政策で失われた文化遺産は膨大で大きな国家的な損失でしたね。二条城全体は徳川氏のゲストハウスではありますが、本丸の方は城郭としての色彩があちこちに残っていて、色々と発見することの多いお城です。じっくり見ていくと面白いですよ。