四十七士記念義士祭・義士追悼法要@本妙寺で赤穂浪士の心を思う!
12月14日は「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士の吉良邸討入りの日。山科の毘沙門堂&大石神社・瑞光院の他、街中の法住寺・西方寺で、四十七士を偲ぶEVENTや法要が行われますが、行者橋、行ったことの無い東山仁王門の本妙寺へ。最初は吉田忠左衛門兼亮(かねすけ)の木像を。
本妙寺は東大路通と仁王門通の交差点から東(平安神宮大鳥居方向)へ少し歩くとある日蓮宗妙覚寺派のお寺で、山号は祥光山。次の画像手前の道路が仁王門通で、画面右が平安神宮方向です。行者橋、この辺りをしばしばチャリチャリするので、お寺の場所と“鬼子母善神”の石標が立っているのは知っていましたが、参拝したことはありませんでした。こちらが入り口の様子。上の画像右の石標の左側に小さな石標が見えますが、“赤穂義士墓当山ニアリ”と記されています。“元禄義挙 四十七士記念義士祭 ”之看板を眺めつつ、門をくぐると本堂が。面白い屋根の本堂ですが、その右手に義士追悼法要が行われる義士堂(宝物館)があります。次の画像が義士堂。本妙寺にある“赤穂義士墓”というのは、吉田忠左衛門(兼亮)と吉田澤右衛門(兼貞)父子、貝賀弥左衛門(友信:吉田兼亮弟)とその妻・おさんの合祀碑のことです。次は法要開始前の内部の様子。本妙寺は自ら菩提寺と定めていた貝賀弥左衛門が討入りした後、1704(宝永元)年に赤穂藩お出入りの京呉服商・綿屋善右衛門が貝賀夫妻&吉田父子の合祀碑を建てます。上の画像は、義士堂内に保管されている綿屋善右衛門が建てた(初代の)合祀碑です。10時の定刻に僧侶一行が入堂し、法要開始です。次は真後ろから撮影した画像。次は四十七士が勢揃いした木造の画像。それぞれの像にちゃんと名前があるので、良く見ればどれが誰なのか直ぐに分かります。最初の画像の吉田忠左衛門兼亮。足軽頭・播磨国加東郡の郡代・200石役料50石の譜代。大石内蔵助(良雄)の補佐役で、享年64。続いては、その長男・吉田澤右衛門兼貞。部屋住みで享年29。 続いては、吉田兼亮の弟である貝賀弥左衛門友信。吉田家に生まれましたが、母の弟・貝賀新兵衛(浅野家中)の養子に。中小姓・蔵奉行、2石10両3人扶持で、享年54。 これらの木像は、1930(昭和5)年に貝賀の子孫9代目の斎藤トラという方が義士堂を建立した時に、義士の遺品や遺墨と共に本妙寺に奉納したものです。続いては、大石内蔵助良雄・大石主税良金父子。法要は、読経後に赤穂氏市長のメッセージを代読する赤穂氏からお見えになった方々(次の画像左のお2方)の登場があったりしながらも粛々と進みます。そして、参加者全員が焼香をして終了。勿論、行者橋も焼香をいたしました。が、その後、墓所にある(新しい)合祀碑前に移って法要。この合祀碑は1993(平成5)年に改修・復元された石碑で、次は正面から。卒塔婆(そとうば)を見て改めて思い出したのですが、大石内蔵助は忠誠院刃空浄剱居士と院号が付きますが、他の面々の戒名は全員“刃○○釼信士”ですね。なお、密命説・逃亡説等がある、切腹をしなかった寺坂吉右衛門信行は遂道退身信士で異なっています。討入りには参加していますので、木像はあります。普段は非公開の義士堂には、書簡他の様々な興味深い資料が多数展示されていました。
忘れていました。本妙寺は日蓮の弟子・日像が1315(正和4)年(1315年)に岩倉の代官・渡辺氏邸に建てた持仏堂が起源。その後、衰退したが、1574(天正2)年に日典(にちでん)が現在地の西に再興。しかし、1708(宝永5)年の“宝永の大火”で焼失。現・本堂は1728(享保13)年の移転時に再建されたもの。
本妙寺は東大路通と仁王門通の交差点から東(平安神宮大鳥居方向)へ少し歩くとある日蓮宗妙覚寺派のお寺で、山号は祥光山。次の画像手前の道路が仁王門通で、画面右が平安神宮方向です。行者橋、この辺りをしばしばチャリチャリするので、お寺の場所と“鬼子母善神”の石標が立っているのは知っていましたが、参拝したことはありませんでした。こちらが入り口の様子。上の画像右の石標の左側に小さな石標が見えますが、“赤穂義士墓当山ニアリ”と記されています。“元禄義挙 四十七士記念義士祭 ”之看板を眺めつつ、門をくぐると本堂が。面白い屋根の本堂ですが、その右手に義士追悼法要が行われる義士堂(宝物館)があります。次の画像が義士堂。本妙寺にある“赤穂義士墓”というのは、吉田忠左衛門(兼亮)と吉田澤右衛門(兼貞)父子、貝賀弥左衛門(友信:吉田兼亮弟)とその妻・おさんの合祀碑のことです。次は法要開始前の内部の様子。本妙寺は自ら菩提寺と定めていた貝賀弥左衛門が討入りした後、1704(宝永元)年に赤穂藩お出入りの京呉服商・綿屋善右衛門が貝賀夫妻&吉田父子の合祀碑を建てます。上の画像は、義士堂内に保管されている綿屋善右衛門が建てた(初代の)合祀碑です。10時の定刻に僧侶一行が入堂し、法要開始です。次は真後ろから撮影した画像。次は四十七士が勢揃いした木造の画像。それぞれの像にちゃんと名前があるので、良く見ればどれが誰なのか直ぐに分かります。最初の画像の吉田忠左衛門兼亮。足軽頭・播磨国加東郡の郡代・200石役料50石の譜代。大石内蔵助(良雄)の補佐役で、享年64。続いては、その長男・吉田澤右衛門兼貞。部屋住みで享年29。 続いては、吉田兼亮の弟である貝賀弥左衛門友信。吉田家に生まれましたが、母の弟・貝賀新兵衛(浅野家中)の養子に。中小姓・蔵奉行、2石10両3人扶持で、享年54。 これらの木像は、1930(昭和5)年に貝賀の子孫9代目の斎藤トラという方が義士堂を建立した時に、義士の遺品や遺墨と共に本妙寺に奉納したものです。続いては、大石内蔵助良雄・大石主税良金父子。法要は、読経後に赤穂氏市長のメッセージを代読する赤穂氏からお見えになった方々(次の画像左のお2方)の登場があったりしながらも粛々と進みます。そして、参加者全員が焼香をして終了。勿論、行者橋も焼香をいたしました。が、その後、墓所にある(新しい)合祀碑前に移って法要。この合祀碑は1993(平成5)年に改修・復元された石碑で、次は正面から。卒塔婆(そとうば)を見て改めて思い出したのですが、大石内蔵助は忠誠院刃空浄剱居士と院号が付きますが、他の面々の戒名は全員“刃○○釼信士”ですね。なお、密命説・逃亡説等がある、切腹をしなかった寺坂吉右衛門信行は遂道退身信士で異なっています。討入りには参加していますので、木像はあります。普段は非公開の義士堂には、書簡他の様々な興味深い資料が多数展示されていました。
忘れていました。本妙寺は日蓮の弟子・日像が1315(正和4)年(1315年)に岩倉の代官・渡辺氏邸に建てた持仏堂が起源。その後、衰退したが、1574(天正2)年に日典(にちでん)が現在地の西に再興。しかし、1708(宝永5)年の“宝永の大火”で焼失。現・本堂は1728(享保13)年の移転時に再建されたもの。
この記事へのコメント
旧暦12月14日は赤穂浪士が吉良邸宅へ討ち入った日で
日本人の大半が今も、義士と称えていますが、私は賛成出来かねません。
事の発端は、霊元院、東山天皇が綱吉の生母桂昌院に従一位を授けるとの正式辞令を伝達する綱吉にとっては将軍宣下に次ぐ儀式の最中に勅使供応役の浅野内匠頭が高家筆頭の吉良上野介に切りつけたのが始まりです。
浅野と吉良にどの様な遺恨事があったのかは、不明で、後世、映画や劇で、吉良が浅野を恥をかかす場面が出てきますが、殆ど、事実無根の様です。
どう考えても、浅野内匠頭の逆上錯乱が原因です。
自身の切腹は当然で、赤穂藩も取り潰され、約350名の家臣と数倍に上る家族を路頭に迷わせた馬鹿な殿様にしか思えません。
家臣達の大半もそう思ったでしょう。
その中で、大石内蔵助以下47名が「亡君の恨みを晴らす。」との名目で、後の死罪を承知で一人の老人の首を取るため、討ち入ったのは、ある意味、立派かもしれませんが、内実は単なるテロ行為です。
切りつけたのは、浅野内匠頭で切り付けられたのは吉良上野介で仇討ちなどとは言えません。
もし、吉良が浅野に切り殺されていたら、事件はそれで終わりですが、マザーコンプレックスの綱吉は、桂昌院に恥辱を与えたとして、浅野に切腹ではなく縛り首にしていた可能性もあります。
浅野が、吉良に切りつけたとき「これまでの遺恨、覚えたりか」と叫んだと記録にありますが、私なりに類推すれば、院使供応役の伊達三万石が金銭に糸目をつけず、接待役を務めようしたのに、実質7万五千石の勅使供応役の浅野家が700両の予算で、
済まそうとしたことから、伊達家に比べて接待が見劣りすることを吉良に何度も指摘されて、内匠頭がそれを恥辱を与えられたと考えたの可能性があります。高家筆頭で高齢の吉良上野介にしても、あの儀式が人生最後の晴れの舞台であり、立派に勤め上げようとして、浅野内匠頭に厳しい指導を行ったのでしょう。吉良にしても、供応役に失態や見劣りする行為があれば、それは吉良の失態でもあります。
事実、この事件後、吉良は隠居させられ、屋敷も千代田の一角から、江戸の外れであった本所に替えさせられています。
とにかく、この事件は事実よりも創作が多すぎます。
忠臣蔵が受けなくなったのはかつて毎年オールスター時代劇をやっていた時代(~90年位)とは異なり、話の内容に共感しづらい世の中になったこともあるのかなと思います。
幅広い世代がなんとなく共通認識として知る芝居の消滅、といえば、忠臣蔵とは違いますが、90年頃まではコントやアイドルの隠し芸大会で必ず見た「森の石松」などの侠客物も全く見かけなくなりましたね。
私の友達は芝増上寺の経営する学校卒業ですが、忠臣蔵、興味ないそうです(笑)。確かその近所に「切腹最中」なる名(迷?)物が。余談ながら津和野にも忠臣蔵&吉良縁の銘菓「源氏巻」があり、津和野出身の友達がよくくれます^^
ところで、「切腹最中」は浅野内匠頭が切腹した芝愛宕下の一関藩主・田村建顕の屋敷跡だったか、近くだったのお店で販売されているはず。昔、日産に勤めていた高校の同級生が「お客様に謝りに行く時に持って行くよ」と言っていたのを思い出します(笑)。また、「源氏巻」の方は広島にいた頃、津和野土産で頂いたことがあります。最初、丸い棒状のお菓子かと思っていたので、平べったい形を見た時はチョッと驚きました。その時に、このお菓子は勅使接待役を命じられた津和野藩主・亀井茲親(これちか)に吉良上野介が意地悪をしたことを契機として作られたと教えられましたが、後になってから、それは吉良・浅野の事件を基にした後世の創作だと聞きました。