明智光秀供養会:2019.08.27。

京都・白川の行者橋(本物の橋の方です)と三条通の間に和菓子屋の「餅寅」さん(こちらをご参照下さい)があるのですが、その横の細い路地の奥に「明智光秀の塚」があり、毎年8月27日に供養会が行われています(ただし、来年からは6月・光秀の命日に変更)。まずは、この日だけ公開される明智光秀像を。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (22).JPG


こちらが、その細い路地。石標には「東梅宮・明智光秀墳」(裏に弘化2=1845年の文字)、そばに「明智光秀の塚」の案内板もあります。来年の大河ドラマ『麒麟がくる』が放送されるのを当て込んでか、今年6月に路地が石畳(風)に整備されました(笑)。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (1).JPG
次が普段の日の様子。格子の扉が閉められています。画像左の駒札も6月に新調されました。
2019.08.04白川粟田夏まつり (3)光秀の墓.JPG
そして、こちらが8月27日。扉が開いていて、お供え物が用意されています。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (8).JPG
上の画像左に見える褐色の石碑には光秀の戒名「長存寺殿明窓玄智大禅定門」が。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (9).JPG
また、画像には写っていませんが、小さな(高さ1m弱)の石塔もあります。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (23).JPG
この行事を取り仕切っていらっしゃるのは「餅寅」のお母さんですが、供養会前にお許しを得て内部を撮影させていただきました。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (2).JPG
「どうぞ、どうぞ」ということで奥の方も撮影。右に明智光秀像と骨壺、左にお地蔵様。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (3).JPG
11時に善光寺さん(得浄明院)の尼さんがお見えになって、供養会開始。お地蔵様の供養も同時に行います。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (15).JPG
行者橋、今年は大河ドラマの影響もあり参列者が多いかと思ったのですが、意外に少数(笑)。供養会はすぐに終わり、善光寺さんの尼さんがお茶を飲みながら、「最近は仏像の盗難も多いので、警報」をつけた方が良いですよ」と防犯のアドバイス。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (18).JPG
この光秀の塚は元々、蹴上の三条通北にあった塚の石塔婆を江戸時代中期に子孫が現在地に移したものです。光秀の首も埋められていると伝えられていますが、ほぼ200年後ですからね、首は怪しいと愚考します(笑)。最後はこちら。
2019.08.27明智光秀・地蔵供養会 (19)来年は6月14日.JPG
明智光秀の家紋は桔梗紋ですので、とても似つかわしい光景です。

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この記事へのコメント

narahimuro
2019年08月29日 11:21
行者橋様へ
戦国末期の最大の事件立役者で歴史を変えた明智光秀の
墓前祭ですね。
光秀は、当時きっての教養人で優れた武将だと
思います。その光秀に謀反を起こされた織田信長こそ
人徳が欠けていたのでしょう。往々にして天才と呼ばれた
人物にありがちなことですが・・・
それにしても、光秀は何故、堺から帰洛途上の徳川家康
を襲撃しなかったのでしょうね、一行の日程は知っていた筈で
500騎ぐらいで、本能寺襲撃と同時に事を起こせば
容易に、50人ほどの家康一行を容易く打ち取れたのは
間違いないでしょう。よく考察すれば、信長襲撃が
とっさの思い付きだったとの例証だったかも知れません。
それと、光秀が敗走途上の小栗栖の森で、土民の竹やりで刺された
と語られていますが、当時の土民は錆び槍や刀を持っていたの
ですから、竹やり使用説は話を面白くさせるために出来たのでしょう。
行者橋 渡
2019年08月29日 12:11
narahimuro様、コメント有難うございます。来年の大河ドラマで新しい解釈等が反映されると面白いなぁと思っております。本能寺の変の真相はまだまだ不明なことが多く、色々なことがこれから分かってくるのだろうと思います。
秀吉の中国大返しも、日程・距離的に決して不可能なことでは無いと解釈されつつあるようですが、急遽、水攻めを収束させて反転した機敏さが、むしろ事の本質なのかもしれません。