二条城撮影所跡@二条城西(押小路通美福通角)。

本来、今日は「第23回京都駅ビル大階段駈け上がり大会」を撮影に行き、その様子をUPしようと思っていたのですが、あいにくの雨だったので断念。ということで、映画関連の記事をUPします。まずはこちらの画像から。
2019.01.02広隆寺釿始め (173)二条城撮影所跡.JPG


「二条城撮影所跡」というタイトルの説明版とフィルムとカメラのデザインがされた(何となく)スクリーン風の石碑(モニュメント)です。場所は二条城のすぐ西、京都市立中京(なかぎょう)中学校の校庭に沿った塀の一角です。
2019.01.02広隆寺釿始め (172)二条城撮影所跡.JPG
上の画像右端に見える建物が二条城西南櫓で、その手前の道路が美福通(南北路)です。押小路通との角で、住所で言うと京都市中京区西ノ京北聖町になります。次が説明版。
2019.01.02広隆寺釿始め (175)二条城撮影所跡.JPG
それによると、二条城撮影所は1910(明治43)年に横田永之助の横田商会によって開設された京都初の撮影所とのこと。広さ約300坪の借地に板敷の舞台(2間✕1間)を作り、開閉自由の天幕でそれを覆ったとか。背景は全て書き割りだったそうです。
2019.01.02広隆寺釿始め (176)二条城撮影所跡.JPG
横田商会は当時、千本座の座長であった牧野省三に協力を求め、尾上松之助とコンビを組んで『忠臣蔵』を最初に撮影し、以後、この地で日本映画発展の基礎が作られ、牧野は「日本映画の父」と称される大活躍をします。1912(明治45)年1月に横田商会は北野の地に法華堂(ほっけんどう)撮影所を建設したので、二条撮影所の実際の開設時期は1年半ということになります。

蛇足➀:二条城撮影所は京都初の撮影所ですが、当時、既に東京に吉沢商店(目黒)・Mパテー(大久保)・福宝堂(日暮里)の撮影所がありましたので、日本では4番目。この4社は1912(明治45)年3月に合併して「日本活動フィルム株式会社(日フイ)」を設立し、さらに同年(7月に改元したので大正元年)9月に社名を「日本活動写真株式会社(日活)と改称しました。急な改称の理由は、「日フイ」という略称が「フイになって縁起が悪い」ということだったそうです(笑)。
蛇足②:(横田)法華堂撮影所は日活関西撮影所と改名しますが、この撮影所は1918年に大将軍に移ります。一方、牧野省三は紆余曲折あって、1921(大正10)年6月に日活から独立して等持院に牧野教育映画製作所を設立し、9月に日本初のスタジオを建設します(こちらをご参照下さい)。そして1923(大正12)年4月に株式会社マキノ映画製作所を創立し、姓も牧野からマキノに変更したそうです。

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