近江八幡:近江八幡ユースホステルは公家の末裔・勧修寺さんが維持していらっしゃいます。

近江八幡ユースホステル(以下、近江八幡YH)は、近江八幡の街中からは北の、かなり琵琶湖の近く(円山町)にあります。木造総2階建・瓦葺の和風の建物で明治期の校舎かと思う程ですが、実は1909(明治42)年に産業奨励の拠点・蒲生郡勧業館として建てられた公共建築です。
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元々は八幡堀に面した宮内町にあり、正面に橋が架かっていたとか。入母屋造りの建物の正面幅は長さ25m。唐破風の玄関のうねった部分(眉と呼ぶのかな)がとても立派です。
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上の画像の唐破風の端には、チョッとユーモラスな一対の獅子(かな)が。次は向かって左の阿形(あぎょう)。
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反対の向かって右は吽形(うんぎょう)ですが、割愛。で、玄関に近づくとこんな感じ。屋根の天辺の瓦には家紋が入り、波打つ造形が。
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上の画像下部の飾り部分は兎毛通懸魚(うのけどおしげぎょ)と呼ぶようですが、さらに一歩入ると細い木の曲線が美しい。茨垂木(いばらだるき)じゃないと思いますが。、
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中央は大瓶束(たいへいづか)、左右が蟇股(かえるまた・笈形=おいがた、とも)。進むと、格式高い折上小組格天井(おりあげ こぐみ ごうてんじょう)が。
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さて、勧業館は新町に移って公会堂さらに近江八幡中央公民館として使用され、1964(昭和39)年、その改築に伴い現在地に移ったとか。入口に「勸修寺(勧修寺:かじゅうじ)」の表札が(*参照)。
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この改築の時、解体されそうだった建物を当時の市長(最初の建築を請け負った方の息子)に移築保存を依頼されたのが、千日回峰行を勤めた勧修寺信忍師だったとのこと。
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1966(昭和41)年から近江八幡YHになったそうで、その運営は勿論、勧修寺家のご子孫。玄関から上がると、勧修寺信忍師の手になる額が。
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雅号は読めなかったのですが、信忍が読めました(笑)。「萬物是師」でしょうね。次が事務室(受付)近辺で、1階はカフェとしても利用中。
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上の画像奥が2階に続く階段なのですが、応接間と思しきエリアも公開されています。ピアノがあったり、美しい仕切りの円窓があったり。
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その先には、床の間や見事な欄間が。お雛様は関東風の配置。欄間は橋があったりするので、琵琶湖の後継かなぁ。
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で、広めの廊下の窓際にテーブルが置かれて、ここでコーヒー等がいただけるようです。
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元に戻り、2階に続く階段へ。親柱が素敵ですが、階段の幅も広め。勧業館として建築されたので、階段や廊下が広めなのでしょうね。
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2階は宿泊のための部屋(次の画像左)ですので、割愛。広い廊下の画像を。窓ガラス(の多く)は波を打った古いガラスでした。
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勧修寺家(*参照)は、27代目・経理(つねおさ)の時に明治維新を迎えて華族となり、その子・顕允が伯爵に。先に出てきた信忍(末雄)氏はその5男。次は2階奥の仏間。
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天井の一部が高く黒くなっていますので、1954(昭和29)年9月16日に比叡山千日回峰行者となった勧修寺信忍氏は、ここで護摩行をされたのでしょう。次は旅行鞄。
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ピンボケ画像ですが、「勸修寺末雄」とありますので信忍師が陸軍中尉時代(1937=昭和12年から10年間)のものかも(中身はご子孫も未確認)。いずれにせよ、豪華な仏間です。チャンと勧修寺の家紋「竹に雀」もありました。
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ちなみに、1900年生まれの信忍師は、1936(昭和11)年に兄・経雄(つねお)氏の死後に勧修寺家を継ぎ、軍を離れた後、54歳の時に千日回峰行を終えたことになります。これは、比叡山焼き討ち後の1585(天正13)年以降で40人目(戦後3人目)だったそうです。

:勧修寺家は、藤原北家「勧修寺流」の支流の公家で、家格では上から5番目の名家(めいか)です。ややこしいのですが、平安時代前期の公卿・藤原高藤(たかふじ:藤原北家の祖・藤原 冬嗣の孫)の子孫を「勧修寺流」と称し、その嫡流は甘露寺家です。
◇元々、甘露寺家は鎌倉末期まで坊城・吉田・中御門等と称していたそうですが、吉田経俊の子・俊定を祖として創設された坊城家の2代目定資の子・経顕(1298=永仁6年~1373=応安6・文中2年)が勧修寺家の祖となったそうです。面倒!(笑)… 南北朝期ですね。
◇その後は本文に記した通りですが、14代目の晴豊は室町末期~安土桃山時代の公家として著名。妹・晴子が誠仁親王妃で後陽成天皇の母となったことでも知られますが、 石山合戦時には勅使として織田信長と本願寺の講和を斡旋したことで有名。
◇1582’(天正10)年6月1日、本能寺の変前日に信長上洛を祝う勅使として能寺を訪れ信長と会見し、変の直後に見聞した二条御所等の状況等を含め『晴豊公記』に記録している。山崎の戦い後、明智光秀の女子の一人を保護したことでも知られる。
◇なお、勧修寺家の家格は名家と書きましたが、公家の家格は、摂家(せっけ:近衛・鷹司・九条・二条・一条)・清華家(せいがけ)・大臣家(だいじんけ)・羽林家(うりんけ)・.名家(めいか)・半家(はんけ:諸大夫家=しょだいぶけ)の順です。

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