藤井厚二の聴竹居を見学!:京都の近代建築№30。
藤井厚二の名をご存知の方はそう多くないかもしれませんが、建築の世界では建築環境工学の先駆者として、とても著名な建築家・建築学者です。その藤井が最後に完成させた自邸が「聴竹居:ちょうちくきょ」です。詳細はおいおい説明するとして、まずは聴竹居の画像から。
1920(大正9)年に、藤井はJR大山崎駅から徒歩10分程の天王山の麓に12000坪の山林を購入しますが、聴竹居はその一角にあります。次はJR大山崎駅から線路沿いに数分歩いた場所で撮影した画像です。中央手前の赤い屋根の上、褐色の樹木の奥に聴竹居があります。聴竹居の内部の撮影は不可でしたので外観等に限定されますが、次は玄関から右手方向を眺めたもの。次は玄関の扉。和風住宅ですが引き戸では無く扉で、モダンなデザイン。その玄関の前には、どこかで見たようなテイスト(笑)の石像が。これはヒョッとして「旧・真宗信徒生命保険株式会社本館(現・本願寺伝道院)の…。確認したら、やはり怪獣好みの伊藤忠太の作品でした。思い起こせば、本願寺伝道院にはいくつか新しい石像が混じっていました。その1つがこちらに飛んで来ていたのですね(笑)。続いては玄関右の台所近辺の画像。藤井は、日本の気候・生活・風土と西洋的な空間構成とを融合させて住宅を作り続ける実験を試みた建築家で、上の画像左に不思議な箱が写っていますが、ダスト・シュートからのダストボックスです。また、上の画像にも写っていますが、床下にはかなりの数の通風孔が設けられています。聴竹居は畳敷き小上がりもある木造平屋の和風住宅ですが、椅子や家電を置く板張り部屋等で近代生活にも対応し、床下と天井裏を結ぶ通風孔を作って自然空調を考慮する等、蒸し暑い日本の気候に配慮した住宅なのです。次は寝室側の様子。南に向いていますが、こちら側から外を眺めると向かいには石清水八幡宮のある男山が望めます。次の画像右端の木が2枚目の褐色の木ですね。藤井は1888(明治21)年に広島県福山市の酒造業・金融業を営む豪商の名家に生まれ、東京帝国大学で建築を学んで卒業、しばらく会社勤めをした後、退社して欧米諸国を訪れて環境工学に興味を持つようになります。要するに、環境問題を意識した建築を研究していく訳ですが、帰国後の1920(大正9)年に武田五一が創設した京都帝国大学建築学科に招かれ、6年後に教授になります。最初に記したように、京都赴任後に大山崎の土地を購入します。そして、藤井はそこに、ほぼ2年毎に自邸を建て、それを知人に譲って再び別の自邸を建てることを計4回繰り返し、そこに実際住むことで日本の風土に適した住宅を探求した訳です。次はお庭にあった瓦。H形の出っ張りは何の意味があるのか聞き忘れました。そして、こちらはすぐそばにある茶室の屋根の瓦(だったと思います)。聴竹居は1928(昭和3)年に第5回目の住宅(*注参照)として最後に建てられたものですが、現在は藤井から譲られた方の子孫の方々を中心とした「聴竹居倶楽部」が管理・保存維持・公開(活用)等に当たっておられます。研究のためとは言え、広大な土地の購入・繰り返す住宅の建築といったことを考えると、これは、やはり実家の経済力が物を言っていると感じざるを得ませんね(笑)。
*注:藤井は最初の自邸を神戸の熊内に建てましたが、2回目以降、最後(5回目)の聴竹居までは大山崎に建てています。1回目・3回目は2階建てだったそうです。また、4回目の住宅は小さかったため家族は住まなかったとか。藤井の奥様は、聴竹居も狭いと仰っていたとか。
1920(大正9)年に、藤井はJR大山崎駅から徒歩10分程の天王山の麓に12000坪の山林を購入しますが、聴竹居はその一角にあります。次はJR大山崎駅から線路沿いに数分歩いた場所で撮影した画像です。中央手前の赤い屋根の上、褐色の樹木の奥に聴竹居があります。聴竹居の内部の撮影は不可でしたので外観等に限定されますが、次は玄関から右手方向を眺めたもの。次は玄関の扉。和風住宅ですが引き戸では無く扉で、モダンなデザイン。その玄関の前には、どこかで見たようなテイスト(笑)の石像が。これはヒョッとして「旧・真宗信徒生命保険株式会社本館(現・本願寺伝道院)の…。確認したら、やはり怪獣好みの伊藤忠太の作品でした。思い起こせば、本願寺伝道院にはいくつか新しい石像が混じっていました。その1つがこちらに飛んで来ていたのですね(笑)。続いては玄関右の台所近辺の画像。藤井は、日本の気候・生活・風土と西洋的な空間構成とを融合させて住宅を作り続ける実験を試みた建築家で、上の画像左に不思議な箱が写っていますが、ダスト・シュートからのダストボックスです。また、上の画像にも写っていますが、床下にはかなりの数の通風孔が設けられています。聴竹居は畳敷き小上がりもある木造平屋の和風住宅ですが、椅子や家電を置く板張り部屋等で近代生活にも対応し、床下と天井裏を結ぶ通風孔を作って自然空調を考慮する等、蒸し暑い日本の気候に配慮した住宅なのです。次は寝室側の様子。南に向いていますが、こちら側から外を眺めると向かいには石清水八幡宮のある男山が望めます。次の画像右端の木が2枚目の褐色の木ですね。藤井は1888(明治21)年に広島県福山市の酒造業・金融業を営む豪商の名家に生まれ、東京帝国大学で建築を学んで卒業、しばらく会社勤めをした後、退社して欧米諸国を訪れて環境工学に興味を持つようになります。要するに、環境問題を意識した建築を研究していく訳ですが、帰国後の1920(大正9)年に武田五一が創設した京都帝国大学建築学科に招かれ、6年後に教授になります。最初に記したように、京都赴任後に大山崎の土地を購入します。そして、藤井はそこに、ほぼ2年毎に自邸を建て、それを知人に譲って再び別の自邸を建てることを計4回繰り返し、そこに実際住むことで日本の風土に適した住宅を探求した訳です。次はお庭にあった瓦。H形の出っ張りは何の意味があるのか聞き忘れました。そして、こちらはすぐそばにある茶室の屋根の瓦(だったと思います)。聴竹居は1928(昭和3)年に第5回目の住宅(*注参照)として最後に建てられたものですが、現在は藤井から譲られた方の子孫の方々を中心とした「聴竹居倶楽部」が管理・保存維持・公開(活用)等に当たっておられます。研究のためとは言え、広大な土地の購入・繰り返す住宅の建築といったことを考えると、これは、やはり実家の経済力が物を言っていると感じざるを得ませんね(笑)。
*注:藤井は最初の自邸を神戸の熊内に建てましたが、2回目以降、最後(5回目)の聴竹居までは大山崎に建てています。1回目・3回目は2階建てだったそうです。また、4回目の住宅は小さかったため家族は住まなかったとか。藤井の奥様は、聴竹居も狭いと仰っていたとか。
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