去年の…お迎え提灯:祝い提灯(変わり提灯)復活の試み・後篇@四条通:2019.07.10。

祇園商店街振興組合の皆様が復活を推進中の祝い提灯(変わり提灯)のご紹介、後篇です。後篇もランダムに祝い提灯をUPしていきますが、最初の画像は意表をついて、当日お見えになっていた宮川町の舞妓さん・叶笑(かなえみ)さんです(笑)。
2019.07.10お迎え提灯・祇園商店街振興組合篇 (46)叶笑・宮川町.JPG


江戸時代、神輿洗の夜に町の家々に御神灯が灯され、芝居小屋の役者名を書き神輿に供奉していた提灯行列が町家にも拡がる中で徐々に変化して祝い提灯になっていったようです(以下。歴史的な説明と祝い提灯の画像が混在します)。こちらは兎かな…。
2019.07.10お迎え提灯・祇園商店街振興組合篇 (24).JPG
江戸時代後期になると、これらの祝い提灯は少なくなっていき、町衆の仮装行列から花街の芸妓さんの華麗な行列である「祇園ねりもの(練物)」(*とても長い注参照:笑)へと変化したようです。次は、梅と桃なのでしょうか。
2019.07.10お迎え提灯・祇園商店街振興組合篇 (26).JPG
こうした背景の下、2017(平成29)年に祇園商店街振興組合では祇園町の有志の方々に声を掛けて7灯の祝い提灯を作り、28日の神輿洗の時に行列で神輿をお送りしたそうで、行者橋も記憶しています。こちらは何だろう、蕎麦徳利かなぁ。
2019.07.10お迎え提灯・祇園商店街振興組合篇 (28).JPG
そして、翌2018(平成30)年には「祝い提灯講社」を設立し、祝い提灯が20灯に増えて、10日には四条通りを少し行列されていました。こちらは、鱧(はも)。7月5日の「はも道中」の時に出てましたね。
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続いて、
28日には祇園町一帯を練り歩く予定だったのですが、暴風雨警報が出た結果、四条大橋への神輿の渡御自体が中止(境内で清めの神事斎行)となり、祝い提灯行列も中止に。次は正体不明(笑)。
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さらに、祝い提灯講社の2年目に当たる昨年は変わり提灯の数が32灯になり、かなり充実してきました。こちらはお多福と松。
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次は、鯖と龍。鱧はいづ重さんだったようですので、こちらはいづうさんかな(笑)。
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そして、こちらは鯛と(何かの)お面でしょうか。
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上の画像のように、昨年の10日には四条通石段下から花見小路の両側にかけて祝い提灯が並び、神輿・祇園万灯会のお迎え提灯の行列をお迎えされていました。
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上の提灯は、伏見人形にもある饅頭食い(人形)かもしれません。そして、最後は亀。
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行者橋はこの祇園商店街振興組合の祝い提灯復活の試みがさらに発展し、ぎおんねりもの復活につながると良いなぁと念じております。

:祇園ねりもの(練物)は、神輿洗の時に芸妓さん達が年毎に決めた演目に合わせた豪華な衣装で夜通し練り歩くものです。江戸中期に町衆が仮装行列を始めたのが、芸妓達に変わったと考えられています。1834~1839(天保5~天保11)年までの記録が残っているものの、水野忠邦の天保の改革で中断。その後、1860(万延元)年に復活し、断続的に1893(明治26)年まで続いたとか。

一旦途絶えたのですが、1935(昭和10)年に7月10日は祇園甲部、7月28日は祇園乙部(現・祇園東)が祇園ねりものを出すことが両花街が話し合って決定(1935年は祇園甲部、翌年から隔年で交代との説も)。先斗町でも、若い芸妓に紫・年配芸妓に薄鼠の揃いの衣装、帯も紅白の昼夜帯、履物も揃え、1893(明治26)年以来、43年ぶりにねりものを復活させて盛り上げようとの話まであったとか。

で、準備を進めていたのですが、直前の1935(昭和10)年6月末に鴨川が氾濫して大洪水となり中止。その後、祇園甲部から「1936(昭和11)年は祇園乙部・1937(昭和12)年は祇園甲部(それぞれ単独)で実施」という順番交代の依頼が祇園乙部にあったそうです。結局、翌1936(昭和11)年に祇園乙部が復活させた後、1960(昭和35)年まで4回行われ、全て祇園乙部が開催したとか。

当時、祇園甲部は弥栄会館の建設等もあってねりものどころでは無くなったという事情もあったようですが(元々反対もあったという話も)、祇園乙部は規模も小さいので、江戸時代のような芸妓が後援者と相談して衣装を新調することはできず、風俗研究家・吉川観方氏の意見により、「各時代・各階級の男女の風俗を再現して『園の賑ひ』とし、雪月花・四季とりどりの景物を添」えて12月を表現したそうです。

1936(昭和11)年のコースは京都市の強い要望もあり、祇園町を出て縄手通を経て三条通から河原町通を迂回して四条通に入り、八坂神社に向かったとか。さらに芸妓の衣装は全て祇園乙部事務所持ちだったそうですが、当時の金額で屋台2台に4000円余、練り子衣装に8000円もかかったとか。総勢300名余名が練り歩き、この時に作った屋台2台は八坂神社に保存されているらしいのですが、詳細不明。

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