鴨川の橋:#03正面橋。

鴨川の橋シリーズ第3弾は、正面橋。不思議な名前ですが、豊臣秀吉が創建した方広寺の大仏殿の正面に繋がる通りである正面通に架かる橋です。最初の画像は、東詰南側の擬宝珠(ぎぼし)がつき、「正面橋」の文字の入った親柱です。
2021.09.09正面橋 (1).JPG


次の画像は、全体像。高欄は低くフラットな橋で、右が東詰(川端通側)、左が西詰(少し離れた場所に高瀬川があります)。
2021.06.22鴨川の橋 (47)正面橋.JPG
次は、再び、東詰南側の親柱。
2021.09.01京都の脚 (17)正面橋.JPG
こちらは、東詰北側の「鴨川」の文字が刻まれた親柱。東詰には袖柱(脇柱)はありません。
2021.08.31鴨川の橋 (49)正面端.JPG
次が、東詰から西方向に橋を眺めた画像。歩道は無く、片側1車線で対面通行可能の狭い橋(道路)です。
2021.09.01元和の殉教碑 (12).JPG
続いては、西詰北側の親柱。「正面橋」と刻まれていますが、横に「昭和二十七年九月」の文字も。1952(昭和27)年に京都市が建造しています。
2021.08.31鴨川の橋 (54)正面端.JPG
反対側の西詰南側には、何故かここだけに親柱と袖柱(脇柱)があります。共に擬宝珠付きです。
2021.09.09正面橋 (5).JPG
実は、次の画像には写っていないのですが、実は釣鐘の右にも擬宝珠の付いた袖柱があります。釣鐘のある理由も2つの袖柱のあるル夕を含めて詳細不明です。
2021.09.09正面橋 (4).JPG
それはともかく、次は西詰から東方向を眺めた画像。道をたどると、耳塚・元々の方広寺である豊国神社(・方広寺・大仏公園)にたどり着きます。
2021.09.09正面橋 (6).JPG
ちなみに、正面橋は地図で見ると東詰が西詰より少し北に位置しています。続いては、東詰の橋台部分。コンクリート製でしたが、何故か石組があります。
2021.06.22鴨川の橋 (49)正面橋.JPG
どうしてこうなったのか、詳細不明。次の画像を見ると、コンクリート製の橋脚の上に2点のみで支えられた鉄製の主桁(土台)が載っていることが分かります。
2021.06.22鴨川の橋 (48)正面橋.JPG
高欄(欄干)部分はコンクリート製。上に鉄パイプが載り、橋脚を含めて全体がとても武骨です。時代的にお金をかけられなかったのでしょうか。で、街灯を。
2021.08.31鴨川の橋 (58)正面端.JPG
シンプルとは言えますが、余り工夫の無い街灯です。次は先端部分。
2021.08.31鴨川の橋 (59)正面端.JPG
もう1つ、東詰にも違う形式の街灯が。
2021.08.31鴨川の橋 (60)正面端.JPG
川端通に共通している訳では無いので、一応、正面橋に備えられたものと考えます。ライト部分がこちら。
2021.08.31鴨川の橋 (61)正面端.JPG
で、正面橋の最後の画像は北側(上流側)唐の全体像。左が東詰、右が西詰です。
2021.08.31鴨川の橋 (47)正面端.JPG
この画像を撮影した場所のそばに「元和キリシタン 殉教の地」と刻まれた美しい鞍馬石の石碑が。元和のキリシタン殉教と言えば、長崎の大殉教が有名なので、何故?…と思ったのですが。
2021.08.31鴨川の橋 (97)正面端北.JPG
秀吉が五条通を本来の通り(現・松原通)より南に付け替え、さらに正面通を造ったので、六条通は随分影の薄い通りにはなっていますが、そう言えばこの近辺は六条河原。
2021.09.01元和の殉教碑 (15).JPG
確認したら、1619(元和5)年10月6日に52名のキリシタンが市中引き回しの上、この石碑の辺りで火炙りの刑に処せられたとか。石碑の裏面には「京都市文化観光局観光部振興課 寄贈 京都元和の記念碑を建てる会」と
刻まれたプレートがありました。鴨川の河原は処刑場だらけですしね。合唱。

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